第13回耐震工学研究会 
(平成13年1月24日,新橋住友ビル第1会議室,参加人数:55名)  

 対談:構造設計に関する諸問題について

矢野克巳氏((有)矢野建築コンサルタンツ)
多田英之氏((株)日本免震研究センター)

 

高山:本日は、多田先生と矢野先生の対談形式によりまして、長い経験をお持ちの二人からお話しを聞こうというような企画を持たせていただきました。

多田:多田でございます。今日、資料が配られたと思いますが、これは今日のテーマにもなるものでありまして、設計者に与えられた裁量権とは何かということをこの辺でまとめて、皆さんに読んでもらいたいと言う願望があり、原稿を書き始めました。それを書く動機は建築基準法が、これはもうできた時から、悪法であると言う事ははっきりしていまして、科学技術をあんなふうに法律で縛ってはいけない。そう思い書き始めました。
制定当時から、建築基準法は、科学技術の立場からいうとマイナス要因ばかり。スタンダード、日本でいえばJISのレベルのもの。つまり底辺をボトムアップするのみに役立つ。だけど先端的な設計者とか研究者に対しては有害でしかないというのは分かっていたから、武藤さん、坪井さんらが寄って、反対運動起こしたんです。だけど、成功しなかった。それで第二弾が超高層の曙と言われた武藤さんが鹿島建設の副社長になって、そこから動き出す。当初の意気込みは、日本建築センターの評定と言うのは、役人やら研究者だけにはまかしておけない、だから我々が超法規的な判断をするんだとその糸口をここでつくったと。けれど、いつのまにか建設省の下部機構になってしまった。
今度の政令は許しがたい。一つこの際、建築界の将来を考えて一言いっておいて皆さんが賛同してくれるか賛同してくれないか。賛同してくれるんだったら、これから運動を起こしますので、影の協力でも声援だけでも良いから協力者を募りたいと。

高山:矢野先生よろしくお願いします。

矢野:矢野でございます。まず私自身の経歴を申し上げますと、1953年に日建設計に入りまして、その時構造部で1番声の大きい人が多田さんであります。何しろ声が大きいから響き渡って、恐ろしい人がいるもんだなと思って以後、今日に至るもその感覚はまったく変わっておりません。この討論を面白くするためには、多田さんの言葉を借りれば悪法、私はその悪法の代弁者をやらなきゃいけないかと思うんですけど、それだけの能力もありませんしそういう気もありません。ただある面でやや多田さんのおっしゃる悪法に、ちょっと申し上げさせて頂きたいと思っております。
多田さんは今回の性能設計法案が悪法であるとおっしゃってたんですが、私は少し違うことを思っている部分があって、それは、まずひとつは世の中が変わったということ。これは法とは関係ない、法が出来た根底として、世の中が変わってきていると思っています。これは建築の世界だけではなくて、これまでのひとつの慣習や社会的なルールというものが、根底から変わってきていると思います。その中でこの性能設計について考えた場合に言えることは「ユーザーに対して情報開示を出来るだけします。ですから、その情報を受け取った人があなたの責任で物を決め、判断して下さい。情報を充分に渡してあるわけだからそれで誤解をすれば誤解する方が悪いですよ。」と、こういうシステムに今切り替わっているのではと思います。
性能設計というのは、構造設計なら構造設計、建築設計なら建築設計の情報をユーザーに開示するにはどうすればいいかということが基本にあると思います。開示できるような方向が、性能の形で表現して情報開示いたしますから、賢明なユーザーさんはその情報を咀嚼して上手に自己判断してくださいというのが本来の方向だと思っております。この考え方自身は私はあるべきだと思っています。従ってこれまでの建築基準法はそういう目で見ると全く落第であります。これまでの建築基準法を性能設計に適した時に、法律がどういう役割を果たすかは、性能を表現するという方向に移るべきだという精神論だけは、ほぼ現在の社会のニーズに適した方向ではないかと思っております。問題は、性能を設計者が上手に表現できているかということと、ユーザーに対して性能をいかに表現して見せるかということです。私はこういう性能のものを造って見せますという事をお約束するというのが本来の性能設計という考え方の基本だろうと思っております。そのこと自身は良いわけです。では、急にこれまで性能で構造性能を表現してこなかった我々が、これから性能で説明しなさい、そしてそれに対して社会に責任を持ちなさいと言われても、これはうろたえる方が現実で、今そのために建築界あるいは建築学会も含めて混乱の渦の中にはまっているのではないかと思っています。
もう少し各論に入りますと、まず法体系の中では、建築基準法そのものと告示と行政指導的に出てくるものと全部ひっくるめて建築の性能設計法という法律であると言えると思うんですが、反対だとか、まずいという時は、一体そのうちのどの部分を指しているか、きっちりと言葉を使いわけなければいけない。明快にモノを言わないと結局何を言ってるんだか聞いてる人は分からない。情報開示をしてくれるという世の中になったのに、その説明をしてくれる人がわけ分からないこと言われたんじゃユーザーとしては困る。従って、この部分はこの通りでやっても良いとか、この部分は行政指導が余分な事をしてるとか区分けしていかないと、単なる革命児になったんでは私は困ると思います。
ただ一方で、行政側の建築審査の問題等も多田さんは例として挙げられましたが、今回の法改正の段階で、建設省の発言の中でこれまでと基本的に変わってきたと思うことがあります。それは建築基準法第一条です。第一条は実は平たく言えば、最低の基準を示すということを法で定めるというようなことです。元々あったのですがこれまでは、建築基準法にのっとってチェックされた建築物は安全ですという言い方を建設省自身言ってきたのが、今回の法改正の時点からは、(ほぼその時期から)これは最低のレベルを示しているんだと言う、いわゆる従来からあった建築基準法第一条を正面に喋るようになられたという事は非常に大きな進歩ではないかと思っております。
もう1つ法律について、性能設計という設計者がやるべき行為と、法律という行為とはどこかで違うはずだと思っています。設計と言うのはあくまでもその人、その建物、その建物の建主にあわすことが設計であって、法はどっかで線を引いてそれが社会的に要求されるミニマムであると。そういう位置付けに少なくとも今回からは行政側の方の発言を明快にされだした。それは大前進であろうと思います。

多田:ユーザーに情報開示というが、情報開示の手段は持ってますか。

矢野:ありません。

多田:早すぎると。性能設計であるべきだと私だって思ってるわけです。ただそれをどう確認するかと言った時に、今の構造力学・材料力学・振動学、全て未熟である。現実問題を現実的に適用条件をはっきりと打ち出せるほどに論理構造は綿密にできていない。だから、性能は設計者の人格とか倫理観とかそれを背景に建築主との相互信頼のもとに「俺に任してくれ、壊れないように作るから」と言うようなものがどうしてもいると。それをマニュアルだとか条文を並べたて、性能設計というのはおこがましい。

矢野:多田さんがおっしゃってる事も私の事もどこですれ違っているかと言いますと先ほどから申し上げたように実は法と令と告示という風に読んでいきますと多分・・・。

多田:法は関係ない。私は基準法は関係ないという立場だ。告示、要するに政令の類。これは、建設省に説明責任がある。つじつまの合わない部分に対して説明責任がある。ところが、その説明責任があるから説明しろと言う奴が建築界にいない。
ところでパブリックコメントご存じでしょう?建築学会が昨年正式な委員会を通じて反対意見を出している。13の構造関連の委員会が公式文書として建設省の担当者に対してパブリックコメントを出した。が、反応は無い。つまり、民意を聞いたというスタイルだ。手練手管。だからそれを確認するために、僕は昨年の秋、官房長に会いに行った。「学会からちゃんとパブリックコメントに質問を出してあって民意を問うたから、民意を言ったと。それに対して答えてない部分が非常に多いのはどういう訳だ」と言ったわけです。すると担当課長を呼んで、課長は質問の意味が分からないと言う。そこから水掛け論なった。「私はもう学会を引退してるけれど、私が読んでも良く解かる。どれがよく解からないんだ。」すると、「そこまで言うなら、もう一度手続きを踏んで出し直せ。そこでもっともだと思うなら取り上げる。」と言うわけです。そこで喧嘩になって帰ってきた。だから今度は裁判の場でやると。
問題は政令にある。基準法にはないと。基準法はザル法だから、甲斐性のない人は御役人の言う通りやればいい。甲斐性のあるのはそんなの聞くかと、私はそれで通してきた。だから甲斐性のある人を守るために運動を起こす。通達及び政令の中の矛盾を解消してもらう為に追及する、論理矛盾を追及する。

矢野:そうですね。法が違うという表現ではなく政令がいけないならば政令がいけないと言って頂かないと世の中は誤解を招くというふうに申し上げたわけです。
建設省が大急ぎで未熟児の性能設計法を早く産めといってを産み落とさせたのは誰かと言えば政治家であると思ってます。決して建築学会の声でもなければ。
勿論、方向として性能設計という流れはもうずいぶん前から起こっています。問題は未熟児であるかどうかが問題であって、ただ一方で未熟児であるかどうかはともかくして世の中の一般のニーズが変わっている。そして今もう少し焦点を絞って、性能をどう定義づけたら良いかと言うのは大変難しい問題ではないかと思っております。
建築構造に関する条文と通達の体系、それをさらに噛み砕いたと称するマニュアル的な基準類や学会の構造計算基準。これが全て、構造設計上必要な性能のうち、人命を守るミニマムだけを位置づけているとおおざっぱには思っています。
性能設計というものを問題だと言った時に今、まず設計者は、性能をお客さんに対して説明をすることが必要であって、性能として説明をする時に、例えば積載荷重というのをお客さんに何と言って説明すればいいのかというとこれまた非常に難しいことです。ですから結果としてはやや多田さんの論理になるんですけど、俺に任せるしかないという話が多分答えとしてはあるのだろうと思うんです。しかしそう言ってしまう前に、地震だからわかりません、つまり千年や二千年に一度の事は良く言えませんと言うのはまだわかって頂けます。しかし積載荷重とかデッドロードとかいうものでも実は、などと言い出すと全く設計者は何をやってるんですかという話になりかねないわけで、その辺を我々はきちんとガードしていかないといけない。
未熟と言った意味は抜本的に性能をキチンと説明できる体系をこれから作るべきだと。つくるうえで今、建築学会の中でやや声大きくしてられる声は大変遠いところ、ある部分だけを非常にクローズアップして議論されているように思います。議論すべきことはもっと幅広く大きいもの、今の我々の技術力で説明できる体系を組み立て直さないと、部分だけを取り上げて議論するのは許し難いと言ってるわけです。

多田:建築学会の過去、構造基準はたくさんあったけどこれは部材設計基準でしかないというのは過去、歴代主査が認識してる。設計体系としての基準はありません。皆さん承知の上で、手も足もでないということなんです。それをやるには御施主さんにどうこうの話ではなく、学問がどこまで到達できるか。僕が今度の政令に対し言っているのは、役人は手におえないことを言うなと。建築基準法とそれから設計界とは共存できた。法律破りができたから。僕の悪知恵で乗り切ってここまでやってきた。そしたら有難いことに法律になった。ところがその法律の中身を見たら免震を知らないのではないかと思わざるをえない。だからいかがわしい免震は止めろと、本物の免震をやれよとずっと声をからして言っている。それについて反論は無くて、今後の告示に出ている内容見ていみれば甚だお粗末で勉強不足もいいところ。知ったかぶりをするなというのが僕の怒りなんです。
もうひとつ阪神大震災の後にJSCAが会長名でストラクチャーの中で色々書いた。翌、平成8年。声明を発表して、地震の時、建物がどうなるかを良く建築主に説明して納得してもらわなければならないみたいなことを書いてたからすぐ電話をかけた。「説明できるの?」と。僕はその前に、1996年のストラクチャーで、もうちょっとありのままの姿を建築主に分かってもらえという論文を特別寄稿というタイトルで出している。要するにわかっている事とわかっていないこと、技術者としてできることとできないことのけじめをつけろと。今、建築学会で設計指針と言えるものは免震しかないと僕は自負をしている。設計体系としていろんな要素を分解してみて、最も論理矛盾の少ない体系はこれだと。まだ完璧ではないけれど。しかし、部材設計しかできない耐震設計体系については甚だいい加減な部分が多すぎる。ただ、そういうのはよく承知をして、みなしでやっていると言うことを認識してそしてどういう手を打つか、それが設計だと。で、地震になったら建物がどう動くかを説明しろとは何事だと。説明できるのかと。
僕みたいなへそ曲がりの設計屋は法律の裏をかいくぐってきたけども、今度の告示では裏をかく術を全部取り上げられた。つまり実験はまかりならない。38条を消された。全ては建設大臣の定める方法によって計算しろと書いてある。今までは、実験等によって安全性が確認された場合はこれに委ねても良いというのが付いていた。だから僕はそれを利用してきたから、共存できたと言っている。

矢野:段々私も多田さんの言った事に反論を覚えなくなってきたんですが、私流の解釈を少しさせて頂きたいんですけども実は、基準法そのものの今回の大改正は建設省自身もステップ1と位置付けていると思います。建研の人が書いてる文章でも今後、体系の中で、次の段階でやらなきゃいけない事を公的な文書の中でも発表してられます。堂々と出すと言う事は建設省内ではあるコンセンサスのもとで公表してると思います。そこに挙げられてる中で、例えば社会機構としての体系をもう1度見直さないといけないということ、これは建設省自身が今回の法改正ではっきりと分かっていて、手をつけないといけないと言ってスタートした項目な訳です。

多田:非常に重要なのはね、社会機構と君が言った。社会機構を言うなら建設界は建築基準法廃止論だ。あるいは建築基準法は良いが政令、告示は全廃しろという風な主張をすべきになるなという論理構造が僕にはある。

矢野:建築士法に手を入れないとダメというのが社会機構の基本なんです。結局、同じ一級建築士と言う資格の中で多田さんのように判断ができる人とまったくできない人とがある。ですから、出来る人と出来ない人を一緒に、1つの一律的な体系の中に押し込めると言う事が基本的に無理がある。

多田:無理じゃない。間違ってる。僕はそれを言っている。

矢野:来月建築学会でシンポジウムを開くんですが、そこでもパネラーの1部の人が、構造設計者として今、一番脂の乗り切ってる人達が「今の法改正どうってことない。俺はちゃんと立派に良い設計ができる。それから設計自由度があるとか無いとか学者・先生言ってるけれど私は十分設計は自由に出来てる」とその人達は思っていると思います。で、その人の構造設計と言うもののうち、重点を置くところが多分かなり違うんだと思うんです。部分だけを取り上げるのは適切かどうか、適切だとしても、それはある部分を言ってるんだという前提のもとでモノを言わないと。構造設計者の中でも現在の性能設計法で自由度は無いなんて言えない、自由度は十分あるよという人と無いという人が出来ると言う事だと思います。

多田:自由度があると無いというのではなくて、自由度がある人と自由度が減るという人の話。言葉遣いは重要だ。正確に表現しないと。僕みたいな奴は、設計屋の中の100人に1人か1000人に1人かもしれないと。だからあなたの言ってる定義はちょっと違う。僕の経験からして、途中でこのぐらいの人だったら引き返すだろうな、裁判しても不条理とは戦うぞと言う奴と、裁判なんかするなと裏方に徹して御上大切にやれよと、僕は裏方だと思ってますがね。仕事の上では。だけど免震の法律だけはどんな事があっても許さないと怒りに燃えてるんだ。

◆ ◇◆◇

矢野:例えば建物によって全く違うんですけれど、大破するかどうかというレベルからいえば震度6ぐらいまでは何とか守りましょうというのが建築基準法での位置づけとして期待している数字だと思います。財産が守れるかどうかと言うのは程度があるわけですから建物によって随分バラつきが入ってくる。さらに機能を維持すると言う事からいえば現在の建築というのは色んな設備機器で守られていて我々の機能を多分に支えてもらってるわけですから、設備機器を含めて全部の機能がどのレベルかと言うのはこれは大変判定が難しい。大部分の設備機器は、その耐震性能が一切表現されていない訳です。
免震でひとつ大きいことは単なる大破のレベルで無い、財産を守るというレベルにおいても大幅に在来より向上しているという風に思います。ただ一方で、私の誤解かも分かりませんが、免震で一番の問題は要するに地震というものを素人の方が「安全です、安全でない」と言った時には、うんと極端にいうと、全く揺れを感じないのがベストなんです。人間の感覚的に言うと上下動って言うのは非常に恐怖感を持つと思います。だから、例えばかなり大きい上下動が入るならば、安全ですという言葉はひょっとすると誤解をつくる可能性があるのでその辺を伝えないといけない。そう言う風に免震については思っていて、だから免震ダメだとか良いとか言ってるのでなくて、説明をする時に、我々技術者同士で共通のコンセンサスの上に成り立って議論しているのが、素人の話の時になるとコンセンサスのレベルがまた変わる。免震がこのように普及してくるとどっかで別の変な反応が出た時に我々は困ってはまずいので、実態をできるだけ情報として伝えておく方が良い。ひょっとすると上下動の感覚の方が鋭敏かもしれないと言う事を前提にお客さんにものを言っておかないといけないんじゃないかという・・・。

多田:上下動が関係ないなんて言ったことない。それから免震の実用化がちょっと進み始めた時、折りあらば上下動の実大実験をやって確認しなくてはならない。立体振動をやるべきだと言ってきた。だけど、どのゼネコンも大学も、ましてや建設省もやらない。それでなんで基準が出来るんだと。それが僕の怒りなんだよ。僕は上下動は関係ないなんて言ったことが無い。免震構造は上下動入れても水平に動く。上下にも動く。水平にも動く。それから地震動は上下動が先に来る。無防備の時に来るから感覚的には反応しやすい、そういうこともあると言ってる。
それから実体波で上下動と水平動をちゃんととってそれを重ねて入力してみろと。僕は小さなものではやってあるけれど実大をやってないからこれが積み残した実験なんだと言ってる。誰もやらない。それで、あんな法律出てくるからふざけるなと。そういう不勉強で、知ったかぶりしてね。

矢野:ともかくとして、これまで私自身の反省として申し上げますと、免震が色々を言われ出した時に社内で、矢野さん免震どう思うんだ?と言われた時に私は免震まだ当分使わないでおけと言った人間なんです。それが正しかったかは別として、なぜそういう思いを持ったかというと構造設計者として非常にシンプルで理論的にも明快なものというのはよほどしっかり考えとかないと落ち度が出きる。いろんないわゆる計算の指標として使っていた、検証の手法として使っていた体系が新しいものに対して必ずしもその通りとは言い難い。例えば多田さんや山口さんのようにある期間は寝ても覚めても思ってた人は結局そう言う事を全部自分の中で理解し検証して、そしてあるチェック方法を編み出してやってるんであって、それを見様見真似で猿真似するのは止めなさいとそう思ったわけです。それならばその程度の取り組み方ならば要するに不静定技術を従来の在来型の構造でやりなさいと。

多田:そこが違うんだ。リダンダンシーの話でしょ?だから過去にやられたリダンダンシーの概念も動的な耐震設計では変えないといけないと言ってる。

矢野:私の主題はちょっと次にあるんでして。免震をやって今までの単なる構造のピンを考えるよりはもうちょっと違う。段々、機械的機構に移ってきた。免震のすぐお隣の制振としてもいろんな機構を考えてる方々も、ある部分で言うと機械屋さんのような機構をどんどんと取り入れてる。そう言う風に考えていきますといよいよもって、構造設計の体系として、色んな意味で例えば荷重にしても今どこまでわかるかと言う事を、分かる範囲で数字を検証の中に乗せていくようにしないと、機構を取り入れる構造体を造れば造るほど段々逃げ場がなくなってくる。とんでもない過ちを犯す恐れがある。
結局RC基準とS基準がようやく出来たかどうかと言う時代から、今の皆さんの果ては、一級建築士で一貫計算プログラムが使える人を抱えておけば、一見超高層含めて全部設計できる仕組みが今世の中にできていて、現実にかなりの範囲の建築物は実は一貫計算プログラム鵜呑み型で設計されているのが現状である。今、法体系の中で大急ぎで考え直さなければならないのは、そう言う事であります。80数万件の確認申請のうち、70万件かそこらまでは今言ったような体系でドンドン設計されていっている。で、そうなりますと現在の基準法で最低のレベル保証という精神を第1条で謳っているけれど、謳っている事の根底から覆しにかかっているのは、別にそれが悪いんじゃないですが、実はコンピュータという便利な道具であると言う事ではないかと思うんです。で、そこのところにメスを入れないと、法として基準法にしろ性能設計法にしろ、1番危険なところはそこにある。宿題が残されているのはその辺を放っておいて、もっとすさまじい変な事が大量に世の中で起こっているのを見過ごす事が私は大問題であると言わせて頂きます。

多田:僕は初めの頃から耐震の反省を促す免震を提供する事で、免震がどこまでいけるか、論理的合理性がどこまでつかめるか、安全性の評価は出来るのか出来ないのか、そう言う事を徹底的にやってきた。
コンピュータソフトの今日は日本建築センターの大きな犯罪の1つだよ。ソフトと言うのは作った者じゃないと変更が効かない。見なしの多い設計法に組み込んで、しかも学会の指針の中には設計体系はない。そういう、いつの間にか分かっている事としてある学者の御託で都合が良い理屈だといって持ってくる。私は、免震をやる時はそういう批判を受けないようにと思ってものすごい金を集めてやってきた。

星:構造ソフトの星です。やはりソフト会社として最後に言われたようなところです。コンピュータは便利な道具であるけれど大変危険であると言う御言葉なんですが、非常に気になりまして。例えば、自動車は便利であって危険でもあるんだと。使い方を誤ったり変な性格な人が運転すると大変危険な事にもなると。そういう意味合いであれば私も理解出来ると思いましてですね。ただ便利なものが全て危険という言葉で一括りされるとやはり違うところがあると思うんです。今の法律の改定という中で触れてみますと、法の中で謳っているのは矢野先生がおっしゃる通り、人命を守りましょうと言う事が法の基本として謳っていた。今度の改定でも基本的には変わってないんじゃないかと思うんです。特に新しい性能の事を明確に謳ってきたかと言うとあまり謳ってもいないなと。つまり、人命のところだけは守りましょうと言ってきた。おそらく違うところと言うならば今までよりはコンピュータも出てきて、良いか悪いかは別にしまして、理論的な計算は出来るようになったのでもう少し精度を上げましょうと言う事でがてきたかと。前提にはコンピュータは無視してないと言う事はあるのかと思います。

矢野:まず、コンピュータソフトは使うべき人が使っていれば私は構わないと思うんですよ。現在の色んな構造計算と言う検証を行う時には、検証の中のある1部分だけを取り上げてると私は思っているんです。従ってそれが決して全ての構造に関する性能、あるいはもう少し狭く言っても構造体の安全性を全部検証している訳でも無いと思ってます。しかしソフトそのものが、不用だ危険だと言ってるのでも無くて、そういう状況の中で使うソフトが無免許で良いのかと言いたいわけです。適用範囲の限界をもっと厳しく位置付けるべきだと思ってるんです。どこで具体的に線を引くかと言うのは今、私にも答えはありませんけど。大雑把にはある答えは作ってあります。
それからもっと申し上げたい事は、要するに建築構造が機構化していると思うんですね。今までの柱・梁と言うイメージではないものが、どんどん取り上げられている。それを本当に上手に使いきる為には、多分ごく近いうちに、建築の構造体のあらゆる場所にセンサーが埋め込まれる時代になってしまうと思っています。これはもう意外と早い。そうするとセンサーでキャッチした情報をコンピュータが処理して、構造体なのか構造機構なのか知りませんがに指令を出す。あるいは逆にこんな使い方をしたら危険だと、危険信号を出すと言う時代はもう本当に目の前に来てしまっていると思います。その技術も随分出来てきたと思います。これは現在の構造計算ソフトとは別ですけども、広い意味でのコンピュータは益々建築構造体の中に組み込まれていく。コンピュータ使用が良かれ悪しかれ急速に広まる時代へもう否応なしに突入していると認識してますし、それだけの身構えが必要です。今の私共にとって技術開発で必要なのはそのセンサーをいかに上手に使いこんで且つそのセンサーで集まった情報を計算してもう一遍構造体に信号を送る、仕上げ材に信号を送るという設計法をしっかりとできる時代になれば言いと思ってますし、狭い意味での免震という方法の中でも、もっとそういう情報をキャッチして使う在り方というのがあるかなと思っています。
ですから先程、非常にコンピュータの一環計算プログラムを目の敵にしたようにも聞こえたかもしれませんが、目の敵には全くしてなくてもっと使っていいと思ってるんです。ただ使う能力の人に応じた適用限界があるんじゃないかと。今、コンピューターでソフトを使ってる人達は購入時に講習会を受けて通った人がいて、その人が使ってると言う形をとれば建築主事さんもその中身についてはブラックボックス扱いを原則としてして良いと言う体系になってると思うんですけど、その在り方は問題ではないかと思ったのです。

星:わかりました。補足説明しますと、以前は建築センターさんが電算評定と言う事で審査していた訳なんですが、その時にソフト会社各社を集めて1度話しあった事があります。それは今のような免許で運転している人もいるからその人に売らないで下さいと言う様な話がありまして。そう言う風な技術者を評価する立場に我々無いんでそれは出来ませんと言う話で終わったことがあります。やはりソフトに対して誰でも使って良いかどうかと言う次元の話は前からあった気がします。やはりたかが制限を加えると言う次元じゃなくて、使う側の人が自ら考えて選択して使うべきものなのかと思います。

多田:日本建築センターにソフトを評定した場合に評定した責任はどう担保するかと言う事だ。無責任でしょう?それからどう言う風に使われているかと言う事だってわかりっこない。それからけじめ。けじめをつけるというのは難しいですよね。僕はそれを裁判所と思ってますよ。

矢野:建築センターにしても建築主事さんにしてもある面で大変無責任なんですよ。

多田:無責任をやめましょうと言うのが僕の主張。

矢野:その責任と言う言葉もね。今行政はある面で無責任だと。要するに責任を取ると言う言葉が人によって全く違うわけで、じゃあ、確認の中でミスがあって実際に壊れたら建築主事あるいは行政機関が、建物を建て直してくれるのか、亡くなった人の命をどう評価してくれるのかと言う話がきっとある。設計者も別に無責任な事をやった訳でなくても現実に壊れている例もあるわけです。

多田:設計者は契約に際して建築主との契約は、片務契約なんだ。僕はあらゆる企業のトップから言われた。よくよく読むと片務契約だと。責任取れません。だから1番良いと思う方法を提供するんです。それでね。事故が起こったら誠心誠意挽回するように頑張りますと。但しお金は頂きますと。そう私が言って逃げた建築主は一件も無い。それが責任です。

矢野:私の答えはちょっと違うんですけど、そういう委託の仕方が1つあって。それは相手が多田さんならそういう委託が成立したわけですけども成立しない設計者もいて。そうするとせめて財産価値だけでも誰か保証してほしいとなったらこれはもう政府でもなければ誰でもなく、それはそういう保険をつくるよりしょうがない。少なくとも財産を守るという意味では保険制度しかない。今後はチェック機構というものを委任するのは保険会社である。そうすると設計者の能力を評価するのは保険会社によって、矢野は不合格である、多田さんならよろしいとか。保険会社は、私は矢野は心配だから、あなたの設計したものなら保証はできませんと。こういう意味での資格制度と言うか、資格能力に対する評価がされるか、あるいは「保険なんかなくて結構です。私は多田さんを信頼して作ってもらいますからそれでいいです。」と言う人はそれでも良い。入居者もこれは多田さんが設計したんだから、多田さんが信用ないと思ったら入らないといけませんよとこう言わないといけないと。

多田:その通りだよ。そのどっちかに統一するという法律の動きが僕は許せないと言っている。どっちでも選んだらいいというなら選びます。告示をよく読んで見るとどっちでもいいとは言って無い。これだけにしろと言ってるから怒っているわけ。そういう話です。

矢野:あれはね。告示はこれだけにしろと言ってるかどうかは必ずしも建設省はそう言い切っててない気配ですよ。

多田:気配はね。言い切ってる気配だ。要するにこの頃学会が言う事きかないと。法律に反したような指針作ったりしてると。そんなものは許しちゃおかないと言う事を言い出したのが昭和50年代だ。

矢野:学会が設計基準を作るという想いは、止めて欲しいと。

多田:JSCAが作れよ。それなら文句無いんだ。

矢野:でもね。JSCAが良いかどうか。これもまた本当は問題ですよね。

多田:役人には無理だ。つまり役人の資質がね。こう言う資質であると言う事が前提となれば役人が作ればいい。前提が問題。

矢野:私もJSCAについて言いたい事あるんですけどね。JSCAと言うのはあくまでも一種の業界団体ですよ。設計業界団体。設計技術者の利害の為に利益の為に作った業界ではないかと言う見方が社会としてみれば当然そう見えるわけです。ですからそう言う組織が作った基準というのには宿命的なものがあるはずだと言う風に社会の人は多分見るわけでしょう。賢明なる官僚機構なんかはそれをカムフラージュするために審議会を作ったりして。じゃあ、JSCAはどういう風にして社会的に信用をどう高めるかって言うのはかなりテクニックを要する事だろうと思います。だけど出来なくはないと思います。ということは端的に言えば設計技術者のみで作ったんでは社会的には色目で見られても仕方が無い。

多田:それあなた間違えてる。理解を間違えている。社会はこう見るだろうという前提を、話の中にいれるけど、社会はという言い方に問題がある。これは信頼に関わる問題。集団と個の関係で建築というのは、社会的にアピールとか何とか言うのは、特殊な専門家だけで、誠実に常識を逸脱しない様に組み立てていく。建築というのは誠実に人間関係を建築主に対して作り上げていく。しかも常識で判断できる。ところが問題にする性能などと言うものは判断できない。性能設計は理想であり、世界的な傾向であると。それは分かってる。その通りである。では、性能をどうして測るかと言う事を考えないで、仮にこういう数値しましょうというのは早すぎる。手に負えない事に手を出すなと。官僚は社会から文句を言われたら、「それは手におえません」と。行政はこぞって当事者責任とか、責任回避をしてる。それはそれでいいんだよ。こっちに責任あるんだから余計な事ゴチャゴチャ言うなと。その代わりこっちで責任取るよと。今まで建築におけるトラブルだっていっぱいある。その時に必ず当事者で決着させてる。ただそれを組織的に、カバーしたり色んな事をするからおかしくなると言うのが僕の認識。つまり責任追及のないところに本来の設計者は育たない。責任追及に耐えると言うその為にこそ俺はエリートだと言う自覚だって出来る。コンピュータ弾いてるだけだと言うのと、コンピュータは道具として使いこなしてると言う立場と違うと。ついでに、2001年宇宙の旅と言う映画ありましたね。昔。コンピュータに裏切られる。人間が。個人の能力と集団に属する個人の能力とは相当解離してる。これは建築に限らない。あらゆる分野で組織に個が埋没すると組織の論理で動かざるを得ない。そうすると本来あるべきクリエイティブと言う言葉。クリエイティブな判断を入れないと、学問だとか技術の空白を埋められない。その空白を埋めるのが設計であり、その設計にはクリエイティブな能力が要求される。クリエイティブとは何かと。納得であると。自分が納得出来る。その代わり対建築主に対しても嘘はつかない。それから自分が専門家であると言う事で建築主を押し切らない。建築主にも納得させる。そう言う人間関係が強烈な信頼関係を生む。

◆ ◇◆◇

多田:あんな法律が出ても何にも感じない、反対運動が出来ないなどと言うようなJSCAはね。創業の精神、基本的な問題に返って反省の必要があると思いますよ。元初代会長。

矢野:反省を言う時間がありませんけども。今まで我々がやってきた中で必ずしも別の目で、ユーザーの立場で見直すと、いくつか非常に重要な事が抜けてしまっている。重要な事こそまず全力投球で社会にアピールして法でカバーするべきなのか、法では無くて自主的な規制が必要なのか、勉強が必要なのかと。私は基本的には全員での勉強のし直しが必要だと本心そう思っています。

多田:正解。勉強が必要。

矢野:社会にどうアピールするか。政治家にどう頭切り替えてもらうかと言う問題は…。

多田:基準法だけにしたらいいよな。

矢野:1割か2割ずつ減らしていく。どの条文かというのを言う方が皆がついてくると思う。

多田:それならね。そう言う事に耳を傾ける権力者をJSCAで捕まえて、場を作ったらやるよ。僕はもう答え出たんだよ。あの条文、いや直さなくてもいいんだ、通達で凍結すれば良い。非常に簡単だ。法律は理想を書いてあるから。理想を現実化する時に越権行為があると。それから現実認識に誤解があると。だからそれを正しなさいと。

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Update Aug. 8, 2001