第18回耐震工学研究会 
(平成13年6月20日,構造計画研究所,参加人数:52名)

多田英之氏(日本免震研究センター)「耐震・免震構造に関する最近の話題について」
 

私を知らない人は私は免震しか知らないと思われているようですが、私は免震屋ではなく、耐震屋なんです。私は大阪の都島工業学校で6年間建築を学びました。ここでの構造基準という講義で頭に残った事は、「今後、耐震設計は重要になる。今は震度法で設計するようになっているが、まだよくわかっていない。将来は地震動研究や解析方法の進歩によって、免震というような考え方もでてくるだろうから、それまでは当分、今のやり方でいくしかない。」という事でした。

後年、フランスで実用的免震バネが開発されたという記事を見まして、すぐに連絡をとり、手紙のやりとりはまどろっこしいので、実際にフランスに飛び、積層ゴムをつくる現場も見てきました。

私は、30年間耐震一筋でやってきました。昭和27年頃、毎日新聞の本社を設計した際、耐震解析の仕方が、本当にこれでいいのかと気になり、実大実験をやりました。この実験をやってみて、学問というのは進んでいないということがよくわかりました。それは当たり前のことで、学問というのは論理構造の正確さが重要なわけです。科学もそうです。ところが、工学というのは現実問題を現実的に解決するという問題があり、学問的にこれがいいといわれている答えが、現実的に、例えば現実の構造物に地震力が働いたときにその通りになるかというのは、調べれば調べるほど解明されていないということがはっきりわかりました。当時、これほど費用がかかる大げさな実験はできないと大林組の現場主任から言われたのですが、武藤清先生が「この実験はやらなければならない。耐震工学は実験が伴わないから本当の進歩がないんだ。建設業はこんな大きな仕事をやった場合は、そのつど実大実験をやるべきだ。模型実験では役にたたない。ぜひやりなさい」とおっしゃいました。そこからはじまるわけです。するとわからないことだらけ。

私は耐震屋です。耐震工学の面からみて、現在、学問的に構造を耐震解析できるレベルにはない。つまり弾性域の解析はできても、弾塑性域の解析はできない。

毎日新聞社の実験後、私が設計担当した場合、建築主の了解を得て実大実験をやってきました。おかげで、わかったことは、耐震解析学はあまり進歩していないし、進歩しないなということです。それは、重要なところを仮定で逃げているからです。

設計と学問は違います。耐震は工学的には未熟です。どういうことかというと、工学の設計の部分は造形であり、設計担当者の責任による意志決定の上に決められています。ところが、解析は学問的にやるわけで、その制約があってどうしてもまだ、工学として、耐震的な力学あるいは材料学というものと、設計上必要とされる基本的な認識につながるデータとが十分整合していないのです。

ところで、設計というのは建築に携わる限りは、中心ですから、建築関係者は学者も役人も皆設計したがる。つまり、設計にくちばしを入れてくる。しかしここで、責任回避を考える。それを私は免罪符と呼んでいるのですが、その最たるものが建築基準法です。今や、技術的には法で規制すべきものではない領域にまで、入り込んできたし、実験によって確かめないとその論理の危うさ、確からしさが確認できない、それが非常に色濃く耐震設計の中に存在しているのに、今度の基準法の改正で、実験研究による新しい設計法の提案を完全に封じた。結果として、建築を設計する場合に、実験及び特別な調査研究によって新しいことをやる場合は、許さないと。

耐震は完成されていない。それから、地震学は工学のレベルにない。これが問題。それなのに、耐震設計をしろだとか、これが最低限だとかという。何をいっているんだと言いたい。

ここで、私は設計者ですので、設計ということについて、基本的なことを申し上げたいと思います。構造設計システムの中には、造形優先型の領域と、解析優先型の領域があります。言葉を変えると、解析能力の低い人は算術でも設計できる。計算の仮定を生かすような物を造ればいいわけです。解析能力の高い人は、自由な骨組みを設計して、それを自分の構造解析能力に応じて解いて、部材やデティールを決めればいい。どちらでも正解なわけです。

それから、構造設計の立場からみると、価値理論というものを設計者は研究する必要があります。市場価値、使用価値、保有価値、安全価値、etc。それをどう調整して、設計者としてどれに重点をおくかを考えなければならない。

次に、造形について。建築の造形を支えているのは機能性。構造性。それから芸術性。芸術的なレベルというのはどういうことかといえば、完全無欠、つまり部分と全体が完全にマッチしていて、そこにアンバランスがないという状態まで煮詰めてできた造形を芸術性が高いと言えます。

また、経済性というのが問題になります。経済性の中に無駄がないという概念が生じる。建築が金儲けの対象になったのは19世紀からです。近代建築論のはじまりは、人によって違うでしょうが、私はオットー・ワグナーだと思います。「建築には材料レベルから、また過去の様式の枠を超えて論理的合理性が重要になる。」こう言われはじめてから建築の堕落がはじまるという人もたくさんいますが、私は堕落とは思っていません。変質のはじまりだと思っています。

安全性について、お役人は簡単に言うけれど、色々な問題がある。材料、部材、接合部、加工の安全性。部材の安全性は複合による相互依存など多くの問題。接合は取り付け方、おさまりの問題。

後は品質。建築の品質は捕らえがたい。だから、特別な検査をしなくても、ここからこの間に納まる、目でみただけでもわかるというような物差しをどう組み込むかというのは設計者の才覚です。

また、建築における品質というのは、人手がからんでいるということが重要です。今のところ建築構造における安全性は、設計者でなければ把握できない。また設計者が正しく把握したかは疑問である。ただし、設計者に有利な点が一つある。どういうことかといえば、問題を一般化しないで、特解で解く。色々な複雑な条件を単純化することができる。その為、正解に一番近い理解ができるのは設計者である。それと同時に安全性について一番理解しているのは設計者なのだから、今度はベースになった品質とか精度、人間が関わった部分の影響力などについて、信頼性が期待できるような状況を作りだすのは、設計者の責任である。それが設計監理ということになるわけです。

耐震設計は、まず地震動を予測しなくてはならない。次に、入力及び応答。つまり、地盤がこのように動いたら、上の建物にはどんな力が発生するどんな変形がおこる、どんなふうにエネルギーが吸収されていくかを見なくてはならない。今度は、その時、この柱、この梁にどのような力が発生するか、どのような強制変形が起こるか予測しなくてはならない。次は各部材、骨組み。それから接合、柱と梁、壁と梁、壁と柱、こういうものに対する信頼性の確保。これで設計が一応は終わるわけです。今度は法律に従った構造計算書を作る。申請が簡単に通るように、建築主事にもわかるようにやさしい話に書き換えて申請書をつくる。これは犯罪でもなんでもないわけです。振動応答解析手法を評価できる建築主事がいなくても、振動応答解析についてくちばしをいれる体制はどうしたらいいかということで、建設省が出してきているのが、今度の方式の重要なポイントです。

わずかな研究費を拡大解釈して、アナウンスする。大した研究成果でもないのに、設計に対して色々といってくる。なぜ決定的にやらないかというとお金がないから労力がないから。実験は物によっては模型で検証できるものがある。実物でなければならないものと模型でもいいものと、仕分けする必要があるのになされていない。その議論がなされていない。その谷間につけこんでいるのが、今度の建築基準法改正であると思っています。

昨年の10月から弁護士に建築基準法を勉強させ、ようやく今度の改正に何が問題かというのを作り上げて、来月くらいに裁判所に訴状を持ち込む段取りであります。

今言ったことをどうしてもやる理由は、分解と総合、一般法則と特解、これを区別する能力を身に付けなければならない、あるいはどういう仮定、みなしによってこの解析が成り立っているのかいないのかということを常に整理、蓄積して設計能力の向上に努めなくてはならない。が、残念ながら設計環境の変化はそういう人材までも巻き込んで、埋没しようとしている。今、設計者不在になりつつある。私はそういう恐怖感を持っているからです。私は50年間、建築の構造に関わったことで、非常に楽しませてもらいました。生きがいのある50年間でした。その為に一つくらい置き土産を残そうと。最も許し難い敵は組織であります。メーカー、建設業、組織は、建築の社会では、設計者の能力を育てるような環境になければならないというのが私の考えで、組織に属して偉くなろうという意識の奴は設計能力を組織に埋没される。昔は、自らの責任において、わからないところを決心して、しかしその決心は、論理構造の上からみても、矛盾をはらんでいない、そういうレベルの決心が建築の設計者にはほとんど備わっていた。ところが、最近私が出した免震構造について、免震を論評する声はたくさん聞くけれども、その99%がなっていない。つまり論評をする奴がわかっていない、免震を調べていない。単なる表面的な言葉を受け取って自分流に解釈して、それを色んなマスメディアに売り込んでいるというのが、あまりにも多すぎる。それに対してそうじゃないという声はほとんど聞けない。

免震構造を本当に育てるのは建築界である。私は建設省と対決しながら、ヒントを与え、門を開いた。ところが、その後の行動様式をみていると、努力しないで、成果だけを得ようとしている。これはエンジニアではない。倫理観のあるエンジニアのやることではない。特に許し難いのは、建設省建築研究所。建設省が免震に関する告示を出したが間違いだらけ。だいたい言葉がおかしい。免震部材は部材であって材料ではない。それなのに、材料として規定してある。それから積層ゴムやダンパーに許容応力度などない。振動応答解析が基本で、スペクトルを基準に考えていると思ったら、とんでもない。いいわけを聞いてみると、建築主事が扱えないから建築主事でも扱えるレベルにしたという。最低限を決めて安全の余裕を見たというが、性能の悪い積層ゴムを使ったら免震の性能を発揮できない。4秒免震を実現できる設計はゴムの配合、部材の寸法、その時の上部構造、というように一義的に決まるわけ話ではない。それは設計者の責任と建築主の合意のもとに決まる話。「こうしろ」というのはおかしいのです。そこで、裁判をやるぞとなっているわけです。協力しようという方は原稿を書いていただきたい。それでもって、社会ではこんな風に反対論が渦巻いているということを、裁判所で公表するというのが私の作戦です。 論理構造で勝負はついているわけです。賛同される方は御支援をお願いします。

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